佐野第4団のライブラリー
佐野先生の胸像 縫田 文次郎
佐野先生が亡くなられたのが昭和31年(1956)1月25日である。
唐沢で訓を受けた人達は、時たま唐沢においでになられる先生を囲んでは昔話やら、各自の状況などを語りあり、それを聞いてうなずかれ楽しまれている先生に限りない親しみを覚えたものであったが、突然、その中心である佐野先生のご他界と言うことで、うつろな思いを抱いていた。
同年5月20日には、佐野先生のみたまが合祀されている唐沢山の避来矢(ひらいし)神社に参拝、集うもの二十名、参拝が終わってから南城館に引きあげ、いろいろ協議があった。
佐野先生にお世話になった団員たちの会を作ろうという話が先ず提出され、これは即決。
その名は唐沢会。これも即決。そのあと組織などの話し合いがあった。
会の総会は春秋に行われる唐沢山神社例祭当日とし、例祭が日曜ではない場合は例祭に最も近い日曜ということに決まった。
これだけを決めてもなお大きな空白が残った。
それは、唐沢会の中心がいない ということである。
われわれの集いの象徴としての佐野先生の胸像を作ろうではないかという話が湧くようにして議題にのぼった。
これにも誰からの異議はなかった。
どれくらいの大きさがいいか。
経費の点はどうか。
誰に依頼するか。
などについて協議が重ねられた。
誰に依頼するか については幸い、春日成夫氏が彫刻に優れた力量を持っているので、この面については春日氏に一任ということになった。
佐野先生の写真は、大高、春日、縫田が数多く所持しているので、三人それぞれに持ち寄って、佐野先生の像が全体的に明確につかめるようにつとめた。
春日氏はこれらの写真を持って、かねてから師事をしていた日展理事吉田三郎先生を上京して訪れ、制作をお願いした。
吉田先生は言われた。
「私が作って出来ないことはない。しかし、私が作るより、春日さん、あなたがおやりになりなさい。魂の入ったものはあなたが作るより外にないので、ご指導はしましょう。」
この言葉で春日氏は肚をきめ、自分からこの大作にとりかかることになった。
五周年祭までに完成させたい という会員の願いがあったので、前半を資料の整理と肚がまえ作りに、後半を制作に、という計画を立て、着々準備を進めた。
当時、春日氏は葛生小学校教頭の職にあったので、工作準備室の一部をアトリエに仕立て、土曜の午後と日曜に制作に専念した。
教頭という職は職員中最も多忙である。彼の苦労は並大抵ではなかった。
しかし、校長もやはり唐沢会員であったので、何とか便宜が与えられたことは幸いであった。
私はギルウェルスカーフ・ウォッグル・ウッドバッチを持っていたので、この面のモデルとなって、椅子に坐ったことも何回かあった。
つまり、佐野先生の胸像の首から下の部分は私がモデルになったことになる。
頭の部分は最も苦心したようである。
中禅寺湖畔、菖蒲が浜で毎年一週間のキャンプ訓練が行われたが、その最終の日、撤収作業も終わり、国旗を降納して帰途につくスカウトに手を振って見送られながら、
「ご機嫌よう」と何回も繰り返して言われながらニコニコ笑まれたあの顔が佐野先生の生涯での一番いい顔であった と言う春日氏は、その顔を胸像に表現したかったのである。
何と言ってもこの面についての制作は日浅い春日氏であってみれば、苦労の程がうかがわれるというものである。
私の家も葛生であったから、何回となく制作中をお邪魔したものであったが、竹べらで削っては付け、ああではなかったか、こうであったのか と、ほんの微量の粘土の付け具合によってはずいぶん「相」がちがって来る。表情がかわってくる。
私もつい口を開けて何かと感想などのべたものである。
原型作りにはたっぷり一年はかかった。
昭和35年(1960)の夏休みは最後の仕上げに努力が集中していた。
翌9月には吉田三郎先生自ら葛生小学校工作準備室までおいで下さって、細かいご指導があった。
10月原型完成。
この原型をいためぬよう自家用自動車で吉田三郎先生のアトリエに運んだ。
石膏作りは吉田先生から専門家に依頼された。
鋳造は同じく唐沢会員若林彦一郎氏。
佐野には藤原秀郷公の頃から伝わる天明鋳物がある。
正田・若林両家がその伝統を今に伝え、芸術品として世に出しているが、若林彦一郎氏はその伝統鋳物の後継者として、新進の芸術家である。
佐野先生の石膏像は若林氏に渡された。
鋳造はまず、原型をもとに外(そと)型を作るものである。その型は鋳物専用の砂を原型におしつける。
鼻や耳、さては目などの穴には奥まで丹念に砂をつめてすき間のないようにする。
「殿さま くるしかんべ」
若林氏はついそう口走った。
佐野先生が息づまっているような、申しわけない気持ちにおそわれたのである。
さて砂がつくと外型を取り去り中型を作る。
鋳造完成、同年12月
台座は業者に依頼し、その着色には春日氏が腕を振るった。
台座にある銅板の銘は文章大高徳治朗氏、書は下手ながら私が何とか形を整えた。
一基を唐沢山南城館に安置し、唐沢会員の集いの象徴とし、他の一基はボーイスカウト日本連盟に寄贈。も一基は佐野家へお贈りした。
唐沢山南城館安置の台座には銅板にこう刻まれている。
--- 佐野常羽先生の像 ---
先生は海軍少将伯爵 御祭神藤原秀郷公の末裔として、郷土の子弟育英のために一九二二年唐沢少年団を設立し、親しく薫陶に当たれること前後九年。
後この教育を全国に及ぼし日本ボーイスカウトの父として仰がれるに至った。
一九五六年御逝去を機に一日団員遺徳を慕って唐沢会を結成、唐沢子供会並びにボーイスカウトの育成に協力し、永く子孫の弥栄を図ることを誓う。
その集いの象徴としてこの像を作る。
原型制作 会員 春日成夫
鋳 造 会員 若林彦一郎
一九六一年五周年祭日
唐沢会
ボーイスカウト連盟に贈った一基には、先生縁の地山中実習所におかれその台座には次のように記してある。
--- 佐野常羽先生像 ---
先生は海軍少将伯爵 栃木県佐野市唐沢山神社祭神藤原秀郷公の末裔として 郷土子弟育英のため一九二二年唐沢少年団を設立 指導に当たられた。
一方 日本人として初めて英国ギルウエルに入所 後日本の実習所開設指導者育成の事に当たる。
一九五六年御逝去を機に旧団員遺徳を慕い唐沢会を結成し、唐沢山主体の青年教育の尽力す
その集いの象徴としてこの像を作りその一基をボーイスカウト連盟に贈る。
原型制作 会員 春日成夫
鋳 造 会員 若林彦一郎
五周年祭の日 唐沢会
敬慕のいしぶみ より抜粋